★こころの糧があればこそ、こころ満ちた自分になれる [人材育成]
その昔、通いなれた祇園のスナックで京都の”OTN”高校の先生と、この『こころの糧』という言葉を共有することになった。
同校の先生方が出版される冊子に、この『こころの糧』の引用を申し出てこられたのがきっかけであった。
身体には飲食という糧(かて;食料、活動の源)が要る。
『こころ』にも身体と同じくそのエネルギーともいうべき『糧(かて)』が要るという。
この『こころの糧』次第で『熱心』になったり、『寒心』に耐えられなくなったり、『心温まる』ことや『心凍る』ことがあったりするという。
1990年頃、当初勤めた企業の管理職時代、京都新聞のコラム欄で見たこの言葉は、当時はもちろん二十数年を経た今でも私の心に沁みついている。
そのコラム欄は、
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『心』には、古来、『心の糧』が要ると意識されてきており、
現代に生きる我々もまた『心の糧』を求め続けている。
『心の飢え』や、『心の渇き』を訴え、
『心満たされない』気持で何かを求め続けている。
『心豊か』に生き、『心燃やして』働くために、
今も『心の糧』を求めている。
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私は三十代半ばから六十代半ばまで、モノづくり企業の管理者を勤めてきた。
その間自らも『心の糧』を求めながら、そして何かの縁で仕事を共にした配下の皆さんに『こころの糧』を与えることができたらと想い続けて、企業人後半は人材育成、人づくりに力を注いできた。
現在は別な立場である企業に勤めているが、私のこの『心想い』は年を経てもなお変わることがな、その基本ベースにあるのは『人づくり』である。
ところで新聞のコラムはまだ続いていた。
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ところで、『心の糧』とは何だろうか?
愛か、助力か、知識か、金か、物か?
この答えを出すことは非常に難しく、一概に言うことはできない。
しかし身体の糧はともあれ、『心の糧』は金、物など物質的なものであってほしくない。
物質的な糧で、『心の貧しさ』がなくなるとも思えない。
『心の糧』は、自分の『心』の持ち様かもしれない。
『心』が何に飢え、何に渇き、どんな糧を望んでいるのか。
存外、自分には見えなくても、そばにいる人がその答えを持っているのかも知れない。
だとすれば、『心の糧』は、人との『心の通じ合い』にこそ求められるものかも知れない。
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ところで、若いころから今も絶えない私自身の『心躍り』、『心逸り』は何だろう?
時には『心沈む』状況に陥ったり、『心を伝えたい』という思いがうまく伝わらない『心寂しさ』を感じることもあったが、今は多くの配下、後輩たちが一流企業の要職を占めて活躍していることを伝え聞く喜びは何にも例えようのない『心満ちた』想いであり、満足感、充実感である。
考えてみれば、結局私の『こころの糧』は、その時々ともに苦しみ、ともに考え、そして答えを出そうと挑戦を繰り返しながら、その後も脈々と次代につないでくれているこの人たちの存在であったような気がする。
私の『心逸り』は年を経てもなお萎えることはなく、この『心満ちた』想いを、その後の違った環境においてもぜひ味わいたいものである。
この私のブログ『ものの見方・考え方』は殆ど更新ができていないが、変わらずご訪問くださっている読者の方もおられるので、本当に久しぶりだったが更新することができた。
★キャッチボールは双方向コミュニケーション [コミュニケーション]
今、ある民間団体の世話役を引き受けているが、その取りまとめに、コミュニケーションのとり方に四苦八苦している。
メール、電話(固定、携帯)、Faxなどなどいろんな手段を、相手によって使い分けながらのコミュニケーションだが、そのこと自体、年齢や経験、環境などに応じて対応することは当然のことと理解できるが、理解できないことが起こっている。
それは『何事も相手があってのこと』との理解がなく、手前勝手に考えて行動する人がいることである。
こんな笑い話にもならない例;・・・メールを送ったが待てど暮らせど返信がない!・・・
そこで色々考えて、電話で「メール見てくれたか?」ということになる。
①相手に着信したのか、
②着信したが見ていないのか、
③見ていても内容を理解できずにいるのか、
④無視しているのか、
⑤単に横着しているのか
・・・・?などなど、とにかく色々考えて悶々とするのである・・・
仕事の場面でも良くあることだが、そんな時私は 『着信したかどうかぐらいリアクションしなさい!』
ということになる。
しかもそれが電話か督促メールなのである。
コミュニケーションは本当に難しい。
そしてそれが団体活動の場合、いくつも重なってくるのだから・・・。
相手たる当事者は一人だから、それほど重くは考えていないのだろうが、多数を相手にするこちらはたまったものではない・・・?!
『キャッチボールは双方向コミュニケーション』と私の書いた『ものの見方・考え方』でも語っているが、投げたボールが相手に届いていないのか、相手がパスボールしたのか、投げ返す力がないのか、投げ返す意識がないのか、とにかく一方通行が多い、、、?!
メールのやり取りで私がもっとも意識しているのは、
【メールを受け取ったら】
①即時受信したとの返信メールを打つこと ・・・ これをもっとも大切にしている ・・・
②内容吟味、検討した後速やかに用件に回答すること、
③回答に時間を要する場合は、その予定を具体的に連絡すること、
④もちろん期限のある内容に関しては期限内に余裕を持って回答すること、
*消印有効、すなわち期限当日日付の返信は避ける
もちろん即答できる場合は、受信連絡と同時に回答することになるのだが・・・。
とにかく団体活動のコミュニケーションは難しい。
それが職場など、物的、人的資源、環境が整っている場合でもそうだから、色んな年齢層、経験、知識、環境などが背景の団体では、取りまとめ者が苦労することになる。
経験したものでないと分からないんだろうが・・・。
★このまま『片想い』で終らせたくない! [人材育成]
恋の片想いの話しではない。
『今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ』
これは『親の心子知らず』ともいうべきことを歌にしているが、それは親が子に想いをかけた片思いの歌である。
もうずいぶん昔(?)の話であるが私の3才年上の姉が交通事故で亡くなった。
すでに父は亡くなっていたが、母が健在の頃であったからその落胆ぶりは形容しがたいものであった。
姉は不慮の事故とは言え、突然母の子を想う深い『片想い』を残して先に逝ってしまったが、姉はどこまで母親の『片想い』を知っていただろうか?
母には娘を想う悲しい『片想い』だけが残った。
一方、姉の運転する車に無謀にも対向車線に出て正面衝突した車の若い運転手は、姉の告別式会場に親に連れられて謝罪に来ていたが、この青年もその親に大きな『片想い』をさせてしまっていた。
『親の心子知らず』
実はこのブログ記事の本筋は実の親子の話題ではなく、私が今まで三つのモノづくり企業に勤めてきて、その仕事を通じて『人づくり』こそ我が最大の使命と思い、その時々の配下や関係者に親ならぬ私の心を伝えたいと『ものの見方・考え方』というタイトルで数十編いや数百編になろうか小文を書き綴って来て、今それをこのブログで再編集しながら順次投稿しているところでもある。
先の記事の『何をしたかでなく何を残せたか?』でいうなら、多くの私の小文が冊子やPCデータとして残ってはいるが、私が本当に残したかったのはこの文書ではない。
そこで語った私の想いが相手の心に残ってこそ『残せた!』と言えるのだろうと思う。
折に触れ、何かの時にその相手が語ってくれる言葉の節々に、私が語った『ものの見方・考え方』が形を変えて語られる時、さらにそれがその人たちの行動にあらわれる時、たとえそれがほんの一部の人であっても大いなる満足感を覚えるのである。
『彼岸花(相思花)』
韓国ではナツズイセン(夏水仙)のことを花と葉が同時に出ることはないから『葉は花を思い、花は葉を思う』という意味で『相思華』と呼ぶらしいが、彼岸花も同じく花と葉が同時に出ることはないので彼岸花も『相思花』と呼ぶことが多いらしい。
彼岸花は永遠の片想いであるが、記事前文はそんなことを期待してはいない。
★久しぶりの投稿;「何をしたかではなく何を残したか」 [人材育成]
【永い空白でしたが約10ヶ月ぶりの復活です! 】
定年到達されたB.氏のお祝いの会が先日の13日(金)にあった記事はもう一つのブログで紹介したが、そちらは趣味のブログでもあり語る言葉も限定したものであった。
その定年に到達されたB.氏とは今の企業の仕事で3年ばかり直接関係し、品質マネージメントや新5Sを進める中で『QC的なものの見方・考え方』などなど幅広く共有化することができて私の仕事も随分捗ったかにみえたが、残念ながら途中で異動される羽目になった。
本人のQCに関わる力量や経験を必要とする別な組織があっての異動と思われるので私も前向きにとらえ、きっと定年を過ぎても本人の活躍の場が多々あるものと期待し、お祝いの花束贈呈に合わせた一言が、
「私たちにとって重要なことは何をしたかではなく、何が残せたかですよね。これから先も引き続いて人づくり、後継者の育成、崩れない仕組みづくりに尽力されるようお願いします。そしてそれらを品質文化・風土として次代につないで行ってください。」
だった。
実は筆者は今まで三度の定年を経験し、今また別な企業でQC関連の仕事の場を頂いている。
一度は最初に数十年勤めた企業で役職定年と同時にリタイヤした時であり、二度目が次の企業の本社で4年間勤務して60歳に到達した時で、その企業の別な事業所に異動して勤務延長の機会を与えられ、その延長期間を全うした時に三度目の定年を迎えたのであった。
そしてその時々に自分を振返って思ったことはいつも「自分に何が残せたか?」であった。
もちろん自分自身では多くの後継者や仕組みを残せたと自負し、今そのメンバーが一流企業の幹部など重要なポストについて活躍している情報を知るにつけ喜びを感じている。
因みに「あれもやった、これもやった!」の「やった!やった!」は自己満足であることが多いが、「あれが残せた、こんなことが引き継がれている。」といったことは後に残された後継者や第三者が評価することであるから、この後継者や第三者に評価され、歴史が証明してくれる「残せた!」になりたいものである。
今年は最初の勤務時代のQC部門の配下だったメンバーが「同窓会」(実は8年前にもやってくれた)を企画してくれるという話もあって、今から大いに楽しみにしている。
なお私の実務経験の中からモノづくり現場の実例に沿った「QC的なものの見方・考え方」というタイトルのQC教育テキストを作成しているが、一般市販書籍として『QC的ものの見方・考え方』(日科技連;細谷克也著)のあることを紹介しておきます。
★鳥瞰的なものの見方がマネージメントの基本 [マネージメント]
更新が遠のいていましたが、久しぶりの投稿は最近よく言われる『見える化』(視える化、観える化ともいう)の一つの考え方についてである。
『見える化』とは『目で見る管理』が出来るようにするとも言えますが、以前ある企業の幹部と論議した中で、『見える化』には①『見える環境を整える』と②『見える能力を身につける』の二つがあるということであった。
この二つの真意を詳しく語るスペースはないが、今回のテーマ『鳥瞰的なものの見方はマネージメントの基本』は、②の『見える能力を身につける』すなわち『マネージメント能力を身につける』に通じるものと考えている。
ここでいう『鳥瞰』とは、空飛ぶ鳥が空から見おろすように、高い所から広い範囲を見おろすこと、全体を大きく見渡すこと(俯瞰する)とされ、鳥瞰図とは自動車のナビシステムにおいても見られる3D画像の世界である。
『鳥瞰図』
以前、当時の配下に向けて発した文書“品質管理技術者諸君!”の中で『2Dではなく3Dで見よ』と書いたことがあったが、3Dすなわち『鳥瞰的にものごとを見よ』と語りかけてきた。
いろんな場面、たとえば企業においても、いざ事が起った時にこの鳥瞰的な見方をすると、その状況、問題の所在が手に取るように見え、その場面に遭遇した地上の人間がいかにも行方定めず、統制も無く右往左往する姿が見えてくる。
しかも問題の渦中にある当の人間にはその混乱状態が見えていない、気がついていないのである。
一時期『BIG MAZE(巨大迷路)』なるものが各所のプレイランドに出現したことがあった。
これは『大きな迷路』で、迷路の入り口から出口までの所要時間を競う遊戯施設である。
私も子供が幼いころ一緒に挑戦したことがあったが、これが非常に難しく、意外と子供の方が得意であったりした。
この迷路には、随所に『高見台(?)』があって、そこに上がると迷路全体の構成が良く見え、そこで出口をたどる作戦をたてなおしてまた下に降りて出口を目指すわけであるが、いざ下に降りてみるとまた方向が見えなくなってしまう。
一方、この高見台から迷路の中の人の動きをみていると、そのムダな動きが良く見えて、その動きが滑稽に見えたりもする。
このことは、いざ事が起った時のみならず、企業における日々の仕事の管理においても、職場の安全管理、品質管理などの面においても通じることであり、管理監督者がその動きの中に埋没し、一緒に右往左往している様に似ている。
今私が言いたいことは、何事も、特に事態が起こったり情報が輻輳したりしている場合に鳥瞰的な見方ができず、指揮官不在となっては戦略的な或いは体系的な管理仕事は出来ないし、結果として回り道ならまだしも、大きく道を誤ることにもなりかねないのである。
ある企業の安全管理活動において、たとえ二人の共同作業であっても必ずリーダーを決め、そのリーダーの合図で作業の危険を回避することにしていた。
まして企業の多くの人が動く(働く)全ての場面では、先の鳥瞰、3D的な見方をし、先を見通した的確な戦略を立て、指揮し統制する管理監督者の出現が不可欠なのである。
先頭をむやみに走ることを『率先垂範』と勘違いし、後方から鞭を鳴らしながらただ『号令』を発するだけで、いたずらに配下を迷路に導く、或いは迷路に追い込む、そんな指揮官は願い下げにしたいと思っている。
鳥瞰的な、俯瞰的なものの見方こそマネージメントの基本であり、マネージャーとはこんなものの見方ができる人材なのである。
★話し言葉の「5定」を大切にしたい(その2) [5S・5定]
前記事に続いて『話し言葉の5定』についてである。
東北関東大震災に関するTV報道におけるコメンテータや当事者の評論は、原発事故を含めてその一つひとつに関心を持ち大事にしているが、何故か腹立ちを覚えることが多い。
専門家でないが故の手出し口出しのできない無力感、もどかしさがそうさせるのだろうか?
今回は、一昨日出社前の短時間でTV報道を見て感じたことを書いてみる。
◆[防波堤(防潮堤)には一定の効果があった]との発言;
今回の津波被害に関して、どこかの準教授が『防潮堤は一定の効果があった』と語っていたが、真意はどうかわからないが私には全く納得できない。
助かった方にとってはそうかも知れないが、亡くなった方やご家族にとっては決してそうとは思えず、『もっとしっかり対策してくれていたら…』と思うに違いないからだ・・・。
もし亡くなった方がものを言うことができたら、『自分たちは、一定の効果すなわちある種のざる(笊)でふるい落とされたのか?』と言うに違いないと思うが・・・。
◆[足りていなかったことこそ評論すべし];
私は災害や危機管理は、それが人命に及ぶものに関しては『足りていたことを評価するのではなく、足りていなかったことを反省すべき』と思っている。
今回の災害も、足りていなかったことをしっかり論議して今後どうそれを克服するのかが問われ、求められてはいないか?
苦痛ではあるが足りなかった事実は事実として認め、それをこの先の『災害の未然防止』にどう活かすのか、学習機会をもっと大切にしたいものだ。
◆[現実的には・・との言いわけ];
おなじ評論の中で『あれほどの津波を防波堤で止めることは現実的には無理で、あとはいち早く逃げること』だとも語られていた。
私は政治家や評論家、或いは企業の管理者の『現実的には・・・』の言いわけ、逃げ口上にも許せない気持ちが嵩じるが、この『現実的』という言葉は、これもよく言われる『想定外』に相通じるものを感じる。
そこでいう『現実』とはどんな裏付けをもった現実なのか、『想定』もどんな裏付けをもった想定だったのか、『世界、国内の専門家、有識者の衆知を結集した結果』だったのか?
思い込みや限られた経験のうえでの『現実』であり『想定』ではなかったか、そんなことを思っている今日この頃である。
記事タイトルの『言葉の5定』とは、前の記事でも書いたように、
・定位;自分の立場を考え・・・・・自分の地位、資格、ポジションをわきまえる
・定量;具体的な数値で・・・・・・定性的、観念的な表現を避ける
・定時;タイミング良く・・・・・・現時点、現状の事態を考える
・定品;テーマを明確に・・・・・・何を伝えたいのか主題を明確にする
・定質;わかり易く相手の立場で・・相手の対場で受け止めが違うことを知る
である。
特に国家の危機、国民の生命に関わり、それを論じる人は、政治家であっても学者であっても、はたまた経営者であっても、この『言葉の5定』を大切にして頂きたいと切に念じている。
★話し言葉の「5定」を大切にしたい [5S・5定]
2,3日前の震災関係TV報道画面で、あるコメンテータ(?)が発した言葉が気になった。
それは「地震の時、津波が来るかどうかは揺れる時間の長さで判断できる。揺れが短い時は津波が来ないが、揺れが長いと津波が来る・・・。』、そんな発言だった。
これを聞いて、私はこの無責任極まりない話に憤りを感じていた。
揺れが長いか短いか、そんなこと何をもって判断するのか?
長いか短いか、そんなこと感じる人によっても違うし、立っている地盤や住まいの構造によっても違うかもしれないじゃないか!
また、長い短いのボーダー、基準はどこにあるのか?!
私は以前、ある企業で『5定のすすめ』というテーマで講演したことがあったが、その時の内容で『話し言葉にも5定がある』と語っている。
上述のコメンテータの話は、まさにこの『5定』の中の『定量』の欠如であった。
その昔、企業のTQC基本スローガンの一つに『事実・データ』があった。
当時のTQC推進トップ製作所長は、定性的な話はもとより“あいまい言葉”を決して許さなかった。
特に、品質管理部門とその管理者に対してはことのほか厳しかったことを覚えている。
現在某企業の品質保証部長をやっている当時の私の配下とともに、いつも厳しく指導されたことを覚えているが、特に品質管理を標榜する管理者だけでなく技術スタッフに対しても、およそあいまい言葉は全てチェックされた記憶がある。
決して仕事の中で長いとか短いなどの定性的な言葉は許されず、定量的な話をしても、それを裏付ける事実とデータが必ず要求された。
この時代に教えられた『ものの見方・考え方』そして『話し方』は、私はもとより当時の配下社員にもDNAの如く引き継がれていて、一流企業の重要なポストを占めている彼らの今日の活躍につながっている。
私は、その厳しい教えの中で得たことを『話し言葉にも5定があり、定位;自分の立場を考え、定量;具体的な数値で、定時;タイミング良く、定品、テーマを明確に、定質;わかり易く相手の立場で・・・』などと考え、今も与えられた場面で次代に伝えようと言い続けている。
★『午前中』の時間約束が許されなくて!(定時) [5S・5定]
当時所属した部門のOB会の席にお招きしているのである。
★『異常のわかる現場』は今も私のメインワード [目で見る管理・見える化]
今日は在宅。
月に一度は最低でも更新と思っていたが、出来ればその頻度を高めていきたい。
もう十数年前だったと思うが日経新聞のコラム『交遊抄』で当時の豊田自動織機会長『磯谷智生』氏の投稿記事で『異常のわかる現場』というタイトルの記事に出会った。
当時勤務した企業で『5S5定』を全社的な活動として進めていた時の、まさに伝えんとしていたことにピッタリの言葉、投稿だったので、我が意を得たとばかりに活用させていただいた。
また、その後も『正常・異常のわかる現場づくり』と言い方を変えてはいるが、この磯谷氏の投稿記事が今でも私の心に生き、そして仕事に活きている。
磯谷氏の記事によると、この言葉はトヨタ自動車『大野耐一』氏から伝えられたとのことだったが、トヨタ自動車とは直接関係なかった私が、その後『大野耐一の現場経営』なる著書にも遭遇し、今も書斎の書棚にしっかりポジションを占めていて、折に触れて私のこころの持ちように刺激を与えてくれている。
当時進めていた『5S5定』も現在は『新5S』と発展形(?)に名を変え、別な企業で現場ものづくりに、品質体質向上に、さらには人づくりに取り組んでいるが、この『異常のわかる現場』は今も変らぬキーワードである。
★時処位を忘れず三次元でマネージメントを [マネージメント]
もう半世紀も前の高校時代、数学の先生が黒板に書かれた文字が『時処位』だったが、未だに心に刻み自身の行動の基準においている。
特に昨今、5S5定とか新5S或いはマネージメントなどを語るに及んで、この言葉の意味合いを次代の人に伝えようとしている。
この言葉には深くて重い意味があるが、この限られたスペースは語り尽くせないので私なりの理解と表現で簡潔に記しておくことにする。